第3章 −3−


 菫が何とか自分を取り戻して部屋に戻ると、ターヴィスが満面の笑顔で菫を待っていた。
 その一歩後ろでは、ラニバが佇んでいる。心なしか、顔色が悪いように見える。菫は体調を尋ねようとして、二人が同時に頭を下げてきたことから口をつぐむ。
「婚儀の日取りが決まったそうで、おめでとうございます。姫さま」
「明後日のどこが『おめでとう』なのよ」
 嬉しそうなターヴィスの台詞に嘆息する。
「こういうことは、早いほうが好いでしょう」
 王妃と同じことを言う。
 彼女にも、抵抗や反論は無理だ。手の内で踊らされるだけだ。経験済みだし。
 仕方なく、菫は受け入れて違う話に持っていく。
「それで、今日は、何の勉強だっけ」
「本日からはいつもの授業をお休みして、花嫁修業に励んでもらいます。その前に、まず婚儀の進め方を説明します。お召物はすでに完成しているので、後ほど合わせましょう。楽しみは、後にとっておくものです」
 それはターヴィスだけでしょ。
 心の中でつっこみ、どうやら自分は大丈夫だと、菫は安心した。
 いつものようにテーブルにつき、背筋を延ばす。ノートの類は必要ない。準備が出来たのを見納めて、ターヴィスは教師モードに入る。その間、ラニバは他の仕事を黙々とやる。ときどき、菫を手助けしながら。
「婚儀は、終始沈黙を貫くことが大切です。神官長さまの古代い言語と、姫さまと殿下の返事のみで式は行なわれます。そうですね、式自体は、簡単です。殿下が神殿の中央で姫さまをお待ちしておりますから、殿下に向かってゆっくりと近付き、左隣で立ち止まるだけでよろしいです。婚儀の直前に神官長自らが『呪』を掛けてくださいますから、姫さまは何の心配もなく、そこにいるだけで結構ですわ」
 依然、ファレルが説明してくれたことと、ほぼ同じだった。
「返事しなきゃいけない時には、勝手に言葉が出てくれるのよね」
「その通りです。その代わり、やり直しは出来ません。失敗することなど皆無ですが、一応、用心しておいたほうがいいですわ。もちろん、離婚も出来ません。浮気など以ての外」
 キリスト教と似たような風習。でもこちらの方がより確実に厳しい。
「それは、わかってる。大丈夫」
「大切なことは、それ位だと思いますわ。何せ、わたくしも現場を見たわけではないので詳しいことはほとんど判らない状態でして。とにかく、神官長さまにすべてをお任せすれば、大丈夫でしょう。わたくしたちはその場には立ち入れませんが、祈っておりますから」
「ありがとう。なんか、まだ実感が沸かないけど」
 突然のこともあるが、今だに信じていないせいもある。
 ここが異世界で、自分が地球に攫われて、ファレルの婚約者に選ばれて、常識がいっさい通用しないことは、すでに納得している。
 信じていないのは、自分の存在。自分の価値。『姫』と呼ばれるような人間じゃないことは自分でよく判っている。
 今だに地球での常識を持っているために、どうしても、夢物語にしか感じない。実は全部夢を見てるだけじゃないかと、夜、眠る前に思ったりもする。目が覚めたら現実だと認識するけど。

―――― 花嫁かぁ。やっぱ、憧れるもん?」
「当然ですわっ。女子としてこの時代に生まれたからには、ファレル殿下の隣に立ちたいという気持ち、みなすべからく同じです」
「そんなもんか」
 興味なさそうに呟く。実際、興味はない。
 ここにきた翌日にはすでに知ったことだが、ファレルはモテる。とにかくモテる。
 藍がかった黒い髪に、限りなく黒に近い藍色の瞳。長い足。優れた剣術。見目の良い顔立ち。さらには、すばらしい生い立ち(何せ王子様だ)。魔術師としての実力もトップクラス。
 いわゆる、エリート。玉の輿。
 モテないはずがない。菫自身、ファレルの美形に惚(某)けたことがある。
 積極的に市民との関わりも持つようにしているらしいし(政治的なことらしい)、ファレルのことを知らない男子はいないし、惚れていない女子はいないぐらい。
 ちょっと言いすぎかもしれないけど、かなり事実に近い見解だと思う。
「イシュアさまも、憧れの的ですわ。姫さまも、お分りになるでしょう?」
 イシュアのあの美形のことを言っている。判らないでもなかった。イシュアの美貌は、そこらの美人だって負ける。女よりも強い。
 心の動揺を隠して、平静を保つ。お腹が、また痛くなってきた。
「似てる、兄弟だよね」
 本人たちは認めていないけど。
 菫はそう付け足そうとした。扉がノックされるまでは。
 今まで沈黙を保っていたラニバが対応に出た。とたんに驚きの声を上げるラニバ。
「まあ。イシュアさま!」
「少し、お邪魔してもいいかな」
 ラニバの告げた名前に、返ってきた声に、菫の心臓が止まった。
 振り返ない。金縛りにあったかのように、自分の身体が自由にならなかった。
「どうぞ、イシュアさま。いま、お茶をいれますわ」
「お構いなく」
 少しだけ頭を下げたイシュアは、昨晩会ったような格好ではなく、ここの景色にあった正装をしていた。鮮やかな空色のマントは、彼の瞳とも、とてもよく似合っている。
 動きも洗礼されていて、王族の一人として紹介されても不思議に思わないぐらい、気品に溢れている。とても昨日のことが嘘のようだ。
「お早ようございます、スミレ」
 頭上から声をかけられて、慌てて立ち上がった。金縛りは解けている。
「お早ようございます。イシュア。こんなに朝早く、どうなされましたか?」
「ファレル殿下の馬を戻しに。彼は毎日のように出掛けますから、必要だと思いまして」
 二人揃ってチェアに着く。その合間に香草茶を持ってきたラニバ。
 お礼を言って、一口味わう。

(うん。大丈夫。ちゃんと冷静だ)

 ちゃんと笑って、挨拶が出来た。どこも、おかしいところはない。
 微笑みを絶やさず、イシュアに対抗しなければならない。これからのためにも。
「あと、遅ばせながら、お祝いを言いに。ファレル殿下との婚儀が決ったと聞きました。おめでとうございます。心から、祝せてもらいます」
 男にしては線の細い笑顔で、イシュアは微笑む。
 菫も、負けじと微笑む。
「ありがとうございます。イシュア。本当に、嬉しく思っています」
「それはこちらの科白です。あと二回朝日が昇れば、ぼくたちは家族になっているんですから」
―――― そう、でしたね。よく考えれば、そうでなるんですよね」
 思ってもいなかった。考えもしなかった。それは、当たり前のことだったのに。

 仮面が剥がれ落ちる。
 ヒビ割れ、崩れ落ちる下から、恐怖が浮かび上がってくる。

 まともにイシュアの視線を受けとめられない。
 どうしよう。冷静でいたくても、心の底からのある恐怖が、それを許してくれない。
「あと、内密にお話があるんですけど、時間は取らせませんから、少しの間だけ、二人だけにしてくれませんか。本当に、申し訳ないけれど」
 ターヴィスやラニバにむかって、イシュアは言った。
 ターヴィスが菫の判断を目で仰ぐ。菫は、半ば首肯くことで答えた。
「それでは、失礼させてもらいます。用があれば、お呼びください」
 室内から、暖かさが消えた。二人が部屋から出ただけで、緊張感が極限まで高まった。
 もう我慢できずに、菫は立ち上がってベッドまで進む。少しでも遠く、イシュアの傍から離れたかったからだ。
 イシュアはそのまま立ち上がり、菫の後を追う。後一歩のところで立ち止まる。
 黙っている苦痛に耐えられなくなり、菫は、悲痛な声で叫んだ。

「あなたはいったい、誰なのよっ!」



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H17.02.20


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