第2章 −3−


 遠出の当日の早朝。すでに全員が集まっている。
 ばらばらだった毛先をラニバに整えられ、菫の髪は肩に擦れるところまで短くなった。
 この国の女性は肌を極力見せないようにしているので、雪のように白い。陽に焼けた菫の肌は、珍しいものらしく、菫はいつも奇異の視線に晒されていた。けれど、男物の服を着ているとそれもなくなる。何せ、男以外の何者にも見えないからだ。
 男でも髪が長い者が少なからずいるので、菫の格好も目立たない。
 が、やはり同乗者に問題があった。
 ターヴィスは、乗馬服を着込んでいた。タキシードにもある、燕服と同じような尻尾のあるジャケットを来て、その下は純白のブラウス。そして同色のスカート。
 スカートは危なくないかと聞けば、これが戦闘服です、という答えが返ってきた。
 菫はターヴィスの前に座って、両腕の間に縮こまった。しっかりと綱をもつ。
「端から見れば、未だ馬に乗れない運動音痴の皇子と、しっかり者で世話焼きの侍女、だな。まったく、情けないかぎりだ」
「うるさいよ、そこ。気が散るでしょ。ターヴィスの邪魔でしょ」
 ファレルの文句に菫は唇を尖らせる。
 初めて王宮から出た菫は、見るもの聞くものすべてが新鮮だった。あっちを見たりこっちを見たり、ターヴィスの注意も聞こえないくせにファレルの悪口だけは聞こえる。
 年中涼しい国だけあって、暖かいものがいっぱいあった。お忍びに近い工程なので、街の中を走ることはなかったが、果樹園や畑を見ながら進めた。
 風が、とても気持ちがいい。土の匂いがはっきりとする。王宮の中では感じることの出来なかった外の薫りが、菫の肌を刺激する。太陽が、とても眩しい。
 視界に飛び込んでくる情報の多さに、高さに対する恐怖はなくなっていた。それが分かったのか、ラニバたちが微笑み合う。そしてターヴィスは、不適に笑う。菫の背中での出来事だったので、菫は何の準備もなく、その中に突っ込まれてしまう。
 馬の進む速さが、一気に変化した。大きく身震いしたかと思うと、力強く土を蹴り付ける。土が舞う。スカートが膨れ上がる。菫の心臓が、波打つ。
「ひぃやゃぁぁ ―――― !!!」
 視界が、物凄い速さで変わっていく。景色が後へと流れる。すでに両端は見えておらず、ただ前方一点しか見えない。
「止めて止めて止めてーっ!!」
 ターヴィスの両腕に自分の腕をからめ、背中を押しつける。そうしないと、本当に恐かった。落ちそうだった。
 心臓が糶り上がる感触。ジェットコースターよりもスリルがある。乗ったことないけど、たぶん、そうだろうと思う。激しく上下に揺られるから、お尻が痛い。ターヴィスが上体を屈めてくる。それがたまらなく苦しい。馬に押しつけられる格好になり、さらに衝撃が走る。もう、意識を手放したかったが、ターヴィスの腕がそれを許さない。
 そんな苦行が、十分近く続いた。


 降ろされたところは、丘の天辺。大木によって出来た大きな影に、菫はへたっていた。
 すでに全員が揃って馬からおり、馬を川へと移動させている。
 叫びっぱなしで喉が痛い。菫も気力で立ち上がると、川へと歩く。
「姫さま、静かに寝ててください。水はこちらでお持ちしますわ」
 ターヴィスが、水筒を持って声をかけてきた。
「・・・・・・ども」
 素直に言うことを聞いた。ていうか、ターヴィスのせいなんだけどね。
 ラニバは、菫の隣に屈んで洋風の扇子で風を送ってくれる。
 菫は浮かんでいた涙を、素早く袖で拭き取った。黒い布に、濃い染みができる。
「なさけないな」
 馬を自由にして、ファレルが近くにやってきた。
 ラニバがさり気ない装いで、ファレルに遠慮して後に下がる。
「もう、馬なんかには騎らない」
「帰りがある」
「歩いて帰る」
 菫は本気だった。
 片眉を上げ、ファレルは鼻で笑う。
「世間知らずのお姫さまらしい科白だ」
 菫は、何も言い返さなかった。
 お姫さまは肩書きだけだ。もとは貧乏性の一般人。そんじょそこらのお姫さんと一緒にしてほしくなかった。それに、馬に乗るぐらいだったらどれだけだって歩ける。
 マントを自分の身体の下から掬い上げ、膝にかける。今だに手が震えている。
「姫さま、どうぞ」
 ターヴィスが水を持ってきてくれた。
 少しずつ、口に含んで飲む。冷たくておいしい。汚染されていない清水だ。
 余裕が生まれた。改めて、まわりを見渡した。
 空が、真っ白で分厚い雲が近い。あたり一面、真っ黄色。橙色に近いタンポポみたいな草花が、絨毯のように広がっている。小鳥の鳴き声も、引っ切り無しに聞こえる。
「いいな」
「でしょう。ここは、街の人々もくるほど素晴らしい景色を見せますから。ぼくも、この季節になると、よく弟たちを連れて来ました」
 シオンが、顔に掛かる赤い髪を後に払いながら言った。
「冷たい空気だ。気持ちいい・・・・・・」
 静かな風に、菫は自然と目蓋を閉じる。より近くに感じられる自然。
(お婆ちゃん家の近くにも、こんな土手があった)
 菫は祖母が大好きだった。祖母の家に、用もないのにいつも入りたびっていた。菫が、菫でいられるたった一つの場所。一つだけの避難所。
 今頃、お婆ちゃんは行方不明になった大切な孫を探しているのだろうか。
 そう思うと、心が締め付けられた。
「ねえ、シオンは兄弟がたくさんいるの?」
「弟と妹が一人ずついます。弟妹とは年が離れているので、話が合わなくなる時が多くて、苦労します」
 可愛いんですけどね、とシオンは言った。
 どうやら、かなりの兄バカらしい。年が離れていると、自然とそうなるのだろうか。
「ラニバは兄弟は?」
「弟が一人います。弟は家業のほうを継いでいます。腕が良いので」
「家業って?」
「細工師です。時計や、鎧の紋章など、手広くやっております」
 宝石屋さんみたいなものかな?
「ターヴィスは?」
「残念ながら、一人ですわ。子供の頃は妹がほしかったんです」
「そっか。妹か・・・・・・」
 菫は、家族を思い出していた。厳しい父と優しい母と優秀な姉。
 ズキリと、お腹に痛みが走る。
 痛みを振り払うように、横に座っているファレルに尋ねた。
「ファレルは一人っ子だよね」
「いや、弟がいる」
「え、会ったことないよ!」
 驚いて、ファレルを見上げる。
 ターヴィスとラニバが、苦笑にも似たため息を吐いた。シオンは困ったように微笑んでいる。ファレルは、不機嫌そうに眉をしかめている。
「乳兄弟という奴だ。血は繋がっていない」
 その様子から、あまり仲良くないことがわかる。そしてそれは、周りの人間にも分かるほど明白なものだろう。
 でも、嫌悪感は感じられなかった。ただ、気が合わないだけなんだろう。
「そういうお前はどうなんだ。兄弟は」
「殿下」
 窘めるように、ターヴィスがファレルを呼んだ。
 家族と無理遣り離された菫のことを思っての行動だ。でも、今の菫にとっては無意味だ。
 今の菫は、本当の意味ではなくとも、自由だったから。
「いいよ、別に気を使わなくっても。大した関係じゃなかった。もしかしたら、わたしが行方不明なのにも、気付いてなかったりしてね」
 菫以外の全員が、これを聞いて気まずそうに視線をそらした。
 気を使ったつもりが、どうやら外してしまったらしい。菫は言い直した。
「別に、仲が悪いんじゃないよ。一緒に暮らしてなかったから、気付いてないかもって言ったの。大丈夫だよ、姉さんが二日置きぐらいに尋ねてくるから」
 そう、姉は、二日置きに菫の部屋にやってくる。
 この世界に飛ばされた日、それがその日だった。世間体を気にする父は、警察には行かないだろう。そしてそれを家族に強要する。母は警察にいかない代わりに興信所を訪ねる。姉は、興信所以上の能力で菫を捜しだす。が、今回ばかりは無理だ。
 菫は不思議な力でこの世界に飛ばされたのだから。
 いくら姉でも、ここを捜し出すことは出来ない。部屋から忽然と姿を消したことは納得しても、地球上のどこにもいないということは、納得できないだろうから。
「理解できないかもしれないけど、わたし、落ち込んでないよ。そりゃ、淋しかったけどそれは友達と別れることだけだったし、家族と別れたことに関しては、感謝したいぐらいだから。だから、気にしなくていいよ。わたしは今、楽しいから。だから、この話はこれでおしまい。もう終わり。ね」
 すぐに立ち直ったのは、意外にもラニバだった。
「わたし、菓子を持ってきました。みんなで食べましょう」
「用意が良いわね、ラニバ」
 続いてターヴィスが、シオンが、ファレルが動く。
 ファレルが自分のマントを敷物にして、その上にバスケットを置いた。バスケットを中心に、全員が丸くなって座る。菫の右隣はファレル、シオン、ターヴィス、ラニバになっている。
 お菓子は三種類あった。チェリー一盛りと、マフィンが一つずつ。そしてかりんとうに似たスナック菓子だ。
 菫はスナック菓子を手に持った。
「これ、なに?」
「キャルスといいます。蜂蜜のお菓子です」
「ふーん」
 興味津々で口に入れた。かりんとうみたく、硬くない。それどころかこれは・・・・・・。
「キャラメルコーンだ」
 赤いパッケージに、黄色いスナック。菫の大好きな、甘いお菓子だ。
「わたしんところにもあるよ、これ。狐色で三日月の形してるけど、味は同じ。歯ざわりも一緒。すごーい、感動だぁー」
「たくさんありますから、遠慮なく食べてくださいね」
「食べる食べる。このさ、溶ける触感が良いんだよね。わたし、もう、すっごい好き」
 機嫌よく笑う菫に、ラニバとターヴィスは顔を合わせて微笑む。
 家族の話をしていたときの菫は、やせ我慢をしているようには見えなかった。けれど、本当に気にしていないようにも見えなくって、さらに、笑顔がない。
 仕えるべく大事な姫が笑ってくれないと、二人にしても淋しかった。
 初めて菫に仕えるよう指示を受けたときは困惑したが、今ではもう、二人とも菫のことを気に入っていた。好ましく思っていた。だから、その笑顔が曇ると気になった。
 菫はたしかに、そこらにいる平凡な人間だ。王族には見えない。
 けれど、その笑顔は見ていて嬉しい。見ている自分たちまで微笑んでしまうような、まるで太陽のように笑う人。
 ターヴィスは、真剣に菫のことを考えていた。
「姫さま、わたし、姫さまのことをお慕い申しております」
「な、なに、突然」
 びっくりして、お菓子を落とす菫。
「それだけは、きっちりと知っていてほしいのです」
 ターヴィスの横で、ラニバも真剣に首肯いている。
 菫も、連られて真剣な顔になる。けど、慣れていないのですぐに笑った。
「わたしも、二人のこと好きだよ。また、こんな風に一緒に出掛けたいぐらいね。あ、もちろんシオンもだよ。ファレルはいらないけど」
「・・・・・・いい度胸だな」
 ファレルが目を眇める。ラニバとターヴィスは、幸せそうに微笑む。
 そんな四人を見て、シオンは何度も、安心したように首肯く。
 静かな時間が、和やかな風が、流れていた。

 乗馬で疲れた身体を柔らかい草の上にもたせ、菫は空を見上げる。
 変わらない空。変わらず流れる雲。
 地球と変わらない空。
 それでも空気が違う。空の蒼さが違う。
「ここはいいところね。空気が澄んでいて、汚れていなくって、綺麗で、まるでガラス細工みたい。ちょっとしたことで壊れるの。空気を汚すようなことは、したくないね」
 地球にいた頃にはこんなこと、真剣に考えなかったし、口にもしなかった。
 でもこの国は、この世界は、まだ壊れていない。汚れていない。
 地球汚染に関わったものが、この世界にはない。
 戦争は、この世界にもあるだろう。けれど、それはこの自然を汚すものじゃない。
 何気に造られてしまった危険なものは、間違いなくあるだろう。この世界は、現代の地球が出来上がる前の世界。そう思えば、納得する。
 両方の世界を知ってしまったから、菫は考える。
 この綺麗な世界を、壊したくない、と。



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H15/12/14

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