3.地 球
何もない床を、つよしを見ていた。
今見たことが信じられない、とは思っていない。ただ、何故、と思った。
濡れて染みが付いた床。散らばった雑巾。凹んだ薬缶。幼なじみが付けただろう、床の引っ掻き傷。爪を立てて、抵抗していた。
ズキリ、と腕が痛んだ。
床同様に、つよしの両腕にも志紀が付けた引っ掻き傷がある。皮は捲れ、血が滲んでいる。シャツとセーターの上からでも、それだけの傷を負った。
それだけで、志紀の必死の抵抗がどれだけのものだったか分かる。
志紀は、心底嫌がっていた。恐怖を感じていた。
けれどつよしは、何の恐怖も不快感も感じなかった。
つよしの霊感と呼ばれる直感は、あの水に何も反応しなかった。
だから放っておいた。気にしなかった。害なきものと見做していた。実際、目の前で起きたことを目のあたりにしても、その気持ちは変わらない。
目を細める。すっくと立ち上がると、居間のカラーボックスから救急箱を取り出した。
普段から絆創膏程度の治療しかしないつよしは、色々な薬品を見て、少しだけ動きを止めた。用途は、説明書を見れば分かる。たかが引っ掻き傷。志紀に感染症の病気がかかっていないのなら、消毒だけ充分だろう。
動きを再開して、上の服を全部脱いだ。肩から背中にかけても爪痕があったからだ。
一人でするのには慣れている。今では志紀がいるから楽をできたが、そもそもつよしは幼少の頃から自分のことは自分でやっていた。料理だって、志紀よりも上手なぐらいだ。
一度か二度、その料理を失敗したことがある。志紀の前だった。そのせいか、志紀はつよしの料理の腕を最悪と見做し、以来食事当番は回ってこない。子供の頃からそうだった。何かしらの失敗をする時、それはいつだって志紀の前だった。何でもそれなりに熟す器用な自分は、尊敬の的だったのに。・・・・・・志紀以外の人間には。
「ったく、面倒な奴だな」
つよしは舌打ちをした。
暖房器具は炬燵だけ。去年まであった電気ストーブは、廃品になった。部屋の中は冷えている。寒い。外は雪まで降っている。
全身に鳥肌が立ち、身震いする。あわてて服を着込み、炬燵に足をつっこんだ。
アパートの他の住人は、里帰りで誰もいない。唯一の住人は大家だが、仲良くしたいと思ったことはない。何よりも、彼の杖の被害が一番多いのは、自分なのだ。
(寒い)
何となく、部屋が広くなった感じがする。
一緒に住んでいるといっても、生活サイクルは微妙にずれている。お互い学生で、バイトもしている身。顔を合わさない日だってある。
それでも、今のように感じたことは一度だってなかった。
気弱になっている。
つよしは自覚していた。それは、とてもいけないことだ。つよしのような霊感の強い人間は、気を弛んではいけない。気の弛みは、浮遊霊を誘き寄せる結果になる。
暗い考えを持ってはいけない。
不安になるような感情を持ってはいけない。
志紀を心配するような行為は、絶対にしてはいけない。
あの水には、敵意がなかった。志紀を狙ってはいたものの、力は微弱だった。台所に残っている思念も、大したものではない。
これが、霊能とは別の次元で起こっていることだとしても、それは確かだ。そのその霊能以外ならつよしの手に負えるわけではないし、例え得意分野でも、出来ることと出来ないことがある。この場合は、出来ないことだ。きっぱりと諦めるが吉だ。
何も出来ないなら、待つしかない。
待つのも修業の一貫として、幼少時から鍛えられている。
「――――・・・・・・寝るか」
やることは最初からない。正月の三が日にはテレビもない。開いている店もない。勉強はやる気すらない。なら、これしかないだろう。
寝正月決定だ。
恋人もいないし、少ない友人も里帰りをしている今、それぐらいでしか時間は潰せない。
それに。
もしかしたら。
(志紀が帰ってくるかもしれない)
そんな気がした。
否、帰ってきてくれないと、困る。
行方不明のままでいられると、志紀の両親に何と説明したら良いのか、分からない。突然消えました、だけじゃ、絶対に判ってもらえないし、犯人扱いされるがオチだ。
なんせ志紀は、つよしの所為で、勘当されている身だから。
ごろり、と頭の下に両腕を敷き、寝転がる。高くもない天井は、シミだらけだ。そのくせ、雨漏りは一切していないのだから、可笑しいアパートだ。
ぼー、とシミを眺める。色んな形がある。
眠気はこない。
新幹線が通った。煩いことこの上ない。しかも地震のような振動が伝わってくる。朝起きたら全壊だった、なんてことは、冗談でも言えない環境。
雪のせいか、それ以外の物音は、聞こえてこない。
そういえば、お茶が飲みたかったんだっけ?
薬缶は凹んでいる。ポットにはお湯は入っていない。
(・・・・・・寒い)
立ち上がるのが面倒臭い。
心が落ち着かない。どう動いたところで無駄なことは判っている。だから動かないし、冷静に情況判断を読んでいる。情況判断といっても、つよしの勘だが。
つよしの勘では、志紀は無事。少々の怪我はしているかもしれないが、生きているだろうという確信はある。
そもそも、あんな役に立たない奴を喚んだところで、高が知れている。
「まったく・・・・・・」
「何がだよ」
返ってきた返事に、思わずつよしは起き上がり、台所に身体を向けた。
そこには、消えたとき同様に、床にへばりついている志紀がいた。
「―――― お茶」
「・・・・・・・・は?」
「さっさとお茶いれろ。喉乾いた」
呆気にとられる志紀の顔。情けなく口を半開きにしたその表情は、かなりだらしない。
が、しだいに赤くなり、目は釣り上がり、きつく見据えてくる。
「ひ、人が、人が大変な目に遭ってるって言うのに、何がお茶だーっ!!!」
「無事だろ。お茶」
「きさまーっ! その性根を叩き直してやるー!!」
直してやるー、と怒鳴った瞬間、志紀の目は潤みだし、涙が溢れ出た。持ち堪えられなかったのが、頬に伝わった。
「な、なんでお前、そんな、普通なんだよっ」
「慣れてるから」
「ばかばかばかばかぁぁ ――――― !」
志紀の口からは、子供のようにそれしかでてこない。
つよしは、やれやれ、とため息を吐いた。
「無事だったんだから、もういいだろ。お茶はいいから、こっち来い。怪我の手当てしてやる」
「怪我・・・・・・?」
不思議そうに、志紀は首を傾げる。
「いいからさっさと来い」
グズグズと鼻を鳴らしながら、志紀は大人しく素直に膝歩きでやってきた。
問答無用にその両手を取り、爪の部分を見る。
「あ・・・・・・」
自分の爪の状態を見て、蒼白になる志紀。
十本中、無事なのは親指ぐらいだろうか。一番ひどいのは薬指と人差し指だ。半分ぐらい爪が剥がれ、血があふれている。表面の血は固まっているが、動かすとすぐに流れる。
自分に置かれている環境の変化に付いていくのに必死で、自分の身体の異変を感じ取るのが後回しにされていた結果だった。
こうして目にすると、知らなかった痛みがやってくる。
じくじくと痛みだし、びりびりと痺れる。
「つ、つよしっ」
「消毒で洗い流すか」
「せ、せめて、水で」
自分で言いながら、志紀はさらに顔面蒼白になる。
志紀の考えをつよしは口にした。
「また、引きずり込まれたいのなら、それでもいいが」
「ショウドクデ、オネガイシマス」
白いスプレーを取出し、片手にもつ。もう一方は逃げようとしている志紀の手を掴んで離さない。かなり力が入っているらしく、ぷるぷると震えている。
スプレーのお腹を、強く押す。シュッと出てくる消毒液。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
引っ込めようとする志紀の手を力付くで前に出し、床に流れ落ちるほどかけまくる。消毒液と血液が交ざった液体が、指を伝って腕に伝わり、袖口を濡らす。
「もう、止めて〜〜〜〜〜っ」
感動の涙は引っ込み、痛みによる生理的な涙が志紀の目にあふれている。
男は痛みに弱いというが、志紀に限らずこれはかなり、痛いだろう。
無表情に消毒液を振り撒き、ガーゼで拭う。それがまた力任せで、拷問のようだ。
「イタ、イ、イターっ!」
爪を剥がそうとしているつよしに、志紀の目の色が変わる。
「つよし、それは止めろ!!」
「とらなきゃ、なおらん」
「取らなくていい!」
「壊死したら・・・・・・」
「ふざけんな!」
志紀は、異常体験を受けた衝撃から立直ったかのように、怒っている。
その隙を狙って、爪を剥がした。
「ぎゃぁぁぁぁ ―――――――っ!!!」
志紀の、目も剥くようような阿鼻叫喚。
階下にいた大家は、その悲痛な叫び声を聞いて肩を揺らしたが、悲鳴の持ち主に思い当ると、何もなかったかのようにテレビに齧り付いた。
「つ・つよし、おまえっ!!」
「これで終わりだ」
タオルで流れでる血を拭い、ガーゼを張りつける。その上に救急箱に入れっぱなしにしていた符を巻き付け、その上から包帯を巻いた。
「あ、それ。・・・・・・見たことが、ある?」
志紀は、痛みのせいで流れる涙もそのままに、なつかしいそれに尋ねた。
確か、痛みを和らげ、治癒を早める効果をもつ符の一枚だ。
小さいころ、怪我をして泥んこで家に帰ったとき、よくつよしの親がこれを巻いてくれた。不思議なもので、本当に直りが早くなる。
爪を無理遣り剥がされたというのに、痛みがどんどん和らいでいく。
本当に、ただのマッチ箱サイズの紙だというのに、よく効く。
さすが、霊能一家の救急箱。
「手だけか」
「それ以上あってたまるか」
「で、今までどこにいてたんだ」
つよしの無遠慮な問いに、思わず怒りを感じたが、応急処置の礼に教えてやった。
エタースという異世界に召喚されたこと。
そこの我侭王子がむかつくこと。
専属魔道士の、頼りない様子のことやら、色々と一気にぶちまけた。
ふんふんと聞いていたつよしは、聞きおわったあと、こう述べた。
「俺も一度、行ってみたいな」
「一人で行けよ。おれは、もう嫌だ」
水のなかに引きずり込まれる感触と浮遊感を思い出し、志紀は顔を歪めた。
付随して、我侭王子のことも思い出し、腹が立ってくる。
「絶対に、行かないね、あんなところなんかっ!!」
はっきりと志紀が宣告したとたん、またもや青白い光が志紀を包んだ。水のなかにいるような浮遊感のおかげで、それがどういうことなのかを悟った。
「つ、つよし、今度こそ助けろっ!!」
「俺も行きたい」
「大馬鹿野郎〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」
志紀を助けるどころか、無理遣り力一杯志紀にしがみついてくるつよし。
さっきはつよしに見向きもしなかった不思議な光も、今はつよしさえも飲み込んでいる。
絶望的だ。
もう終わった。
世界の破滅だ。
ぐるぐると回り続け思考回路は、不吉な言葉ばかりを羅列する。
そして、慣れたくないけど慣れてしまった浮遊感に、志紀とつよしは放り出された。
【戻る】
【続く】
|