1.地 球



 新幹線が通る高架下。緑色のフェンスに沿うようにして建てられているボロい木造のアパート。所々補修のあとが残っており、プレハブ小屋のようになっている。
 このアパートの名前は、『スマイル荘』。
 大家はアパートの名前に似ない頑固親父で、挨拶をしてもニコリとも笑わない。そのくせ、挨拶せずにアパート内に入ろうとすれば、ステッキが頭の上に降ってくる。
 新幹線の騒音は煩いし、大家は大家だし、地震や台風がくればすぐにでも潰れてしまうような法律無視のボロボロなアパート。
 なのにこのスマイル荘から誰も出たがらないのは、家賃が安いのと、駅が近いせい。
 そして、一癖も二癖もある住人たちが、三癖もあるスマイル荘と大家が好きだからと、気に入っていたからであった。
 大学生の一条志紀もそんな住人の一人であった。
 志紀は唯一まともな住人と言ってもいいだろう。
 今日も今日とて、正月だというのに玄関前を箒で掃いていた病気知らずの大家に頭を下げてアパート内に入る。郵便箱に何も入っていないのは、出掛ける前に確認したのでそのまま素通りする。
 穴が開きそうな階段を慎重にわたり、二階にあがる。
 片手に持ったスーパーの袋が、一段ごとに自己主張する。
 左手に部屋が二つ。右手にも二つ。志紀が向かうのは左側の奥の部屋だった。
 鍵は付いているものの、無用の長物となっているノブを回し、部屋に入る。
「戻ったぞ」
 靴を脱ぎ、出掛ける前にはなかった自分よりも大きな運動靴を見て、室内に声をかけた。
 テレビの声だろうか、聞き慣れない合成音が、志紀の耳を揺らす。
 柱の向こうから、見慣れた同居人の顔がひょっこりと表れる。
「どこ行ってたんだ」
 片手に持ったビニール袋を持ち上げる。納得したのか顔を引っ込めた。
 三畳程度の玄関がつながった台所で、いったん脚を止める。
 このアパートはボロッちぃが、一部屋に三つの小部屋があり、また、広かった。
「お前、いつ帰ってきたんだ。明日の予定じゃなかったっけ」
 家の事情で実家に帰っていた田所つよしの帰還に、ビニール袋の中身をそのまま冷蔵庫に突っ込んでつよしの元に向かう。
 つよしの実家は、代々から続く霊能者一族だ。胡散臭いかぎりだが、小さい頃から
交流があるので、すでに志紀の中ではそれは普通である。
 台所と居間の間はガラス戸で仕切られていたが、今は邪魔なので、外してある。大家もガラス戸を壊されるよりはいいと思ったのか、快くガラス戸を預かってくれた。
「思ったより早く済んだから、次の仕事を押しつけられる前に逃げてきた」
「罰当たりな・・・・・・」
 年季もののコタツと、ゴミ捨て場から拾ってきた大型テレビ。その横の三段ボックスにはビデオテープやラジカセ、山椒などの調味料が整理されて入れられている。
「俺は別に、長男じゃないしな。家督を継ぐわけじゃない」
「そういう仕事でも、長男とか関係あるのか?」
「あるわけない」
 つよしはリモコンでチャンネルをかえていたが、ついには電源を切ってしまった。
 そしてそのまま背中から倒れ、頭のしたに腕を組んで昼寝の態勢になる。
「正月ってのは、なんでこう、つまらない番組が多いかね」
「正月だからだよ」
 コタツに足を突っ込み、志紀は一息を付く。
「今年はストーブいらずで助かるぜ」
 化石に近い電気ストーブは、かなりの電力を食う。
 大学卒業した先輩からのお裾分けであるコタツは、大活躍である。
「志紀、お茶」
「自分で入れろよ」
「一仕事終えて、長旅から帰ってきたばっかで、疲れてる」
 何も言わず、志紀は立ち上がった。料理音痴であるつよしに、食器類を壊されるよりは確実にましだったからだ。
 着っぱなしだったジャンパーを脱いでハンガーに掛けると、台所に入る。
 急須にお茶っ葉をいれ、電気ポットのスイッチを入れる。が、中身が出てこない。
「お湯、切れてるじゃないかっ」
 電気ポットの中身の残量は、空に近かった。
 危ない危ない、と呟くと、薬缶に手を延ばす。蓋を開けて蛇口の下に持ってきて、勢い良く栓をひねった。
 が、水はでてこない。
「あれー、凍ってんのかぁ?」
 しかし、朝は洗面所で顔を洗っている。朝食を取った後も食器を洗っている。
 たとえ冬でも、この町で、ほんの数時間で水が凍るはずがない。
「つよしー、水が出ねえ」
「根性だ」
「根性で出せたら、修理屋はいらねぇっつーの」
 何度も栓を閉じたり開いたりしていると、蛇口からドロリとしたジェル状の液体がでてきた。ゼリーを中途半端に凍らせたようなそれに、志紀の表情が歪む。
 それはまるで、蛇のようだった。
 しかし水には違いない。熱してしまえばいいのだ。
「――――――――っ」
 薬缶が、音を立てて志紀の手から滑り落ちる。甲高い音がした。志紀の視線は、ただ一点のみ。しかし確実に、薬缶は凹んでいることがわかった。

  いったいこれは、何だ?

 信じられないものが、そこにあった。
 常識では考えられない動きをするもの。重力に反した動きをするそれ。
 蛇口から出てきた氷ゼリーが、まさしく蛇そのものの動きで、左右上下に動いていた。
「志紀ー?」
 薬缶が落ちた音を不審に思ってか、つよしが面倒臭そうに立ち上がり台所にきた。
 つよしの呼び掛けに、ようやく志紀は足を動かすことに成功する。
 しかし、目が離せない。声が出ない。少しでも目を離せば、声を出せば、その得体の知れないものが襲ってきそうだったから。
 何かを探すように動く、氷ゼリー。
 それは次第に志紀の方に近付いてくる。蛇口はひねったままなので、質量は増えている。増えた分だけ、志紀に近付いている。
 氷ゼリーは溶けもせず、落ちもせず、床と水平に進んでいる。
「何だ、それ」
 つよしが、志紀の肩から顔を出し、氷ゼリーを指差す。
 いつもののほほんとしたつよしのその言動に、志紀は怒りを覚えた。怒りが恐怖を、一瞬だけ紛らわせる。その一瞬が、すべてだった。
「お、お前の得意分野だろうが! 早くなんとかしろっ!!」
 声が出る。視線もつよしの暢気な顔に移っている。
 つよしは「専門外だ」と呟くと、氷ゼリーの怪異など知らぬげにスタスタとその横を通り過ぎると、氷ゼリーの源である蛇口の栓をひねり、止めた。
 ぴたりと動かなく氷ゼリー。そして次の瞬間、氷ゼリーはただの水となって床に落ちた。バシャリと水が跳ねる。足に掛かったそれは、冷たい。
 ひっ、と叫ぶと、志紀は跳びはねた。水が冷たかったからではなく、怪異なものが足にかかったために。生理的反応である。
「水道代がまた高くつく。いい加減にしろよ、志紀」
「お前は今のを見て、それが感想かっ!!」
「水の幽霊なんて、おれは知らない」
 つよしはさっさと炬燵に戻ると、さっさと寝る体勢になった。
 殺意を覚える瞬間。
「つよしっ、どうするんだよ、これっ!?」
「寒いから、さっさと拭け」
「オレがっ!!?」
 志紀は叫んだ。物凄く嫌だった。お金を積まれたってしたくなかった。
 だからといって、お金を払ってつよしに後始末してもらうのもすごく嫌だった。
 とにかく、応急処置として雑巾を何枚も濡れた床におこうとする。これならば、水に触れる事無く、雑巾が水を吸収してくれる。時間を置いて菜箸で掴んでそのままごみ箱に捨てれば、大丈夫だろう。うん、そうしよう。
 志紀は早速雑巾を持って、水浸しの床に雑巾を並べる。雑巾は効率よく水を吸収していく。安堵感が、その度に増していく。
 なのに、この男の発言が、ぶち壊しにする。
「志紀ー、茶はー?」
「どうやって煎れろって言うんだっ!?」
 つよしのあんまりな言い様に、ついには志紀は切れた。
「オレはお前の賄い婦じゃねぇっ! 自分でしやがれっ!!」
「――――― ちっ、使えない奴」
 ぼそりと呟かれた言葉は、幸いにも志紀の耳には届かなかった。
 つよしは物憂げに立ち上がると、雑巾だらけの床を越えて、台所に立つ。つよしが何をするつもりなのか志紀は理解し、怒りで真っ赤にした顔を、真っ青に変えた。
 蛇口の栓に手を伸ばそうとしている、目の前の男。

「ちょ、ちょっと待ったぁぁぁーっ!」

 志紀の必死の訴えにも耳を貸さず、つよしは思いっきり栓を捻った。
 勢い良く流れる大量の水。重力にそって、流れ落ちる水道水。
「あ、あれ?」
「さっきの変な水は、志紀を狙ってたからおれなら大丈夫」
 突っ込みたいところがあったが、志紀は一先ず安堵の息を吐く。冷汗が流れる。
 まったく心臓に悪いことをしでかす奴である。
 親同志が仲の良い幼なじみでさえなかったら、とっくに縁を切っているというのに。
「・・・・・・ポットの中にも入れといてくれよ。オレ、もう水には近付きたくない」
 つよしに背を向けて、志紀は言った。つよしとうまく付き合う方法は、こちらが折れること。過去のことは、とりあえず忘れてやること。これに限る。
 額に手をやって、体に悪い汗を袖口で拭う。
 びちゃりと、足元が濡れた。
 一瞬、判らずに足下を見た。見た途端、猛烈に後悔した。
 先程の奇っ怪な氷ゼリーの残骸に、足を突っ込んでいた。
 文字通り、片足が水の中に突っ込まれていた。足首までが、なくなっている。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ ―――――― っ!!!」
 何かに捕まれているように、足がまったく動いてくれない。無茶苦茶に暴れるが、びくともしない。どんどん足は床に吸い込まれ、膝まで飲み込まれていた。
「志紀っ」
「つよし、助けろ!」
 すでに片足だけでなく、両足まで沈んでいる。
 この後、どうなってしまう? 理屈を考えれば、一階に落ちるだけだ。
 けど、そんな事ありえるわけないだろ、こんな状況で!
「もっと踏張れよ、やる気あんのかっ?」
 つよしが珍しく怒声をあげる。こんな時なのに、おっ、と感心してしまう。
 腰から下の感覚がいっさいない。動かしているはずなのに、神経に触れないのだ。
「さっさと持ち上げろよ!!」
 女のように、泣き喚く。
 つよしはもう何も言わず、ひたすら志紀の腕を取って持ち上げようとしている。
 けど、一向に持ち上がらない。それどころか、確実に沈んでいく。
 すでに胸に達している。喉までもうすぐだ。このままじゃ、消えてしまう。
 耐えられない恐怖が、志紀を襲う。
「あ、あ、あ・・・・・・っ」
 強く、つよしの肩を抱く。確かなものに触れていたかった。
 もう、つよしの顔が見れない。プールのなかに顔を突っ込んだような衝撃。必死に手を伸ばす。床に指があたる。雑巾の感触。

 つよしは、どこだ?

 指の先まで沈んだ途端、絶望感が志紀を支配した。
 もう、何も考えられない。


戻る】       【続く

H15/06/20

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