岩木邸。
広大な日本家屋。それも、二階の存在がないお屋敷。その外見と内見は、まさしく遊園地の皿屋敷そのまま。
まるで平安時代、一条路に存在した安倍晴明の家屋のように、荒れ果てている。
その屋敷の庭で。樋口月湖は縁側に寝転がって、空を見ていた。
この庭に梅の木は一本しかない。が、その見事な枝振りはご近所に二本寄り添って生えているように見えると評判で、ゆえに梅屋敷と呼ばれている。
鮮やかな色彩。目が覚めるような、はっきりとした配色。
いくつもの桃色のような紅が、青色を背負って風に揺れている。
前日の雨なんて微塵も感じさせない快晴。雲ひとつない高い空。雨の翌日の空は大気が澄んでいるんだろう、とても輝いて見える。かといって、肌に触れる陽射しは柔らかく優しい。
風に揺られた小枝の先から、梅の小さな花びらが地面に落ちた。蕾ごと、はらはらと散った。揺れながら落ちた蕾は、生えっぱなしの無節操な雑草の上に浮かぶ。深緑と土の色の上、紅が幾つ浮いても、映えている。
緑、青、黄色、紅、桃色、白、橙・・・・・・。
空を見ているが、縁側の角度のせいで庭の一部も視界に映り、自然と地面の様子まで見届けてしまう。
「つーきーこー。また来たのか」
嫌味のきいた声が、頭上から振ってきた。
「お邪魔しています」
「確かにね」
はっきりと「邪魔」だと告げた青年は、声と表情とは裏腹に、敷地内に勝手に入ってきた少女の横に、お茶菓子を置いた。
庭を一望できる縁側に腰掛け、寝転がって空を見ていた少女は、菓子の位置を確認せずに手をのばし、戸惑うことなく探り当て、口元に持っていった。
以前、洋菓子が出てきたとき、生クリームを手掴みしてもそのまま気にせず食べてしまった少女のために、お茶菓子は固形物に限定されてしまっている。
ぽかぽかと気持ち良く、昼寝をしたくなる陽気。
雨続きだったせいか、貯めていた洗濯物を干すには、絶好の洗濯日和だった。
「母が、岩木さんに、よろしくと、言っていました」
ぼそりぼそりと告げられた一言。少女の口調は、ゆったりとしていた。単語が途切れるところは、確実に一呼吸している。まどろっこしいのだ。
しかし聞き取れないことはない。慣れてしまえば、はっきりと耳に優しかった。
「ここは託児所じゃない」
迷惑だと、岩木は言外に強く言った。大学生である岩木は、高校生の彼女を、高校生のように扱ったことはなかった。小学生を相手にするように動かなければ、ときどき神経が切れそうになるのだ。
「月湖、お前の家からでも梅は見えるだろう」
「空は・・・・・・」
少女月湖は、そのまま口を閉ざしてしまう。
いつものことだった。
彼女の突拍子のない単語や、脈絡のない発言や、頓挫してしまう言葉は。
ピピピピピピ。
機械音が静かな住宅街の一角である庭に鳴り響く。この家に相応しくない音だ。その原因は、寝転がる少女のスカートのポケットから聞こえてきた。
岩木の顔が、不快感でわずかに歪む。
それに気付いてか、それとも無視してか、月湖はゆったりと原因を取り出した。
ゆったりとした時間の流れを楽しむのが好きな年寄り臭い月湖らしくない持ち物。その趣味のいちばん対極にあるもの。シルバーの携帯電話。
急かすような呼び出し音に動じずに、月湖は出た。月湖からは一切、問い掛けをしない。返事もしない。一連の動作。唯一の発言は、通話を切る間際の「わかりました」だけ。
月湖と嫌々ながらの近所付き合いを始めた頃には、すでにそれは当然のことだった。
何においてもぼぅっとしている月湖が、この電話にだけは反応し、動きだす。時には拒絶を繰り返したりする。
「失礼しました」
礼儀正しく岩木の真正面に立ち、頭を下げる月湖。勝手に人の家にくる癖に、こういう時だけは妙に礼儀正しい。
岩木からは何も言わない。この電話がある日だけは、何も言わない。
立ち去る月湖の背中を見ながら、岩木はいつも奇妙に思う。
電話の呼び出しは月湖の恋人だと、岩木は確信している。以前、漏れ聞こえてきた声が、男性特有の低い声だったからだ。それも気やすい感じがした。
だから、あんなゆったりとした性格の月湖と付き合う甲斐性を持つ男が存在することが、不思議でたまらなかった。
花鳥風月 海の章 01
白いブラウスに臙脂のネクタイ。同色のプリーツスカート。冬は同じく臙脂のブレザーがつく。コートも濃い臙脂だ。今は初秋だから、合服期間にある。
それが、樋口月湖の通う女子高の制服だった。
月湖は17歳だ。故に、高校2年生である。故に、学年を表すバッチの色は緑色だ。ちなみに一年は黄色で、三年は白色になる。繰り上げのため、三年間、その色はかわらない。
それは、三時限目と四時限目の休み時間だった。
携帯持込み禁止ゆえ、スカートのポケットに忍ばせていた携帯電話が振動するのが分かった。しかしそれも、五秒経つと勝手に切れた。過去にも何回か経験のある切れ方だった。
組織からの仕事の要求だ。
月湖は不思議に思った。端から見ればいつもの無表情だが、しかし確実に、月湖は不快な気分を味わっていた。
平日の午前中に携帯が鳴ることは滅多にない。そもそも、学校にいる間、携帯が鳴ること自体、珍しいことだった。しかも昨日、一つの仕事を熟している。
それだけで、事の重大性と急用性が解るものである。
「どしたの、月湖」
今までおしゃべりを楽しんでいたミズコが、不意に立ち上がった月湖に問い掛けた。
鹿島捻子。高校からの友人である彼女は、月湖の読書仲間である。
「早退する」
「・・・・・・お弁当まで待ったら?」
真面目に月湖が皆勤賞を狙っていることを知っているミズコは、天変地異の前触れかと目を見張った。
「出掛けてくる」
月湖の言い直しに、ミズコはますます変な顔になる。
出掛けるということは、また戻ってくることを意味する。
「どうしたのよ、いったい」
「じゃ」
何の説明もしないまま、月湖は指定バックを持って教室を出た。教師に見咎められたら弁解のしようがない格好である。
それでも、さぼりの常習犯のように堂々と、月湖は教師に見咎められることなく校舎を出ることが出来た。タイミング良く(悪く?)、授業開始のチャイムが鳴る。
昇降口から校門までは、コンクリートで舗装された桜並木で、悠に100メートルある。校舎から見て左手には、JRの線路が遥か下にある。学校は山の上に建っているからだ。右手には、一年生の教室が並んでいる。しかし教室は半地下にあるので、向こうからこちらへは、足までしか見えないだろう。
山の中に建てられただけあって、かなり坂があり、勾配も緩いのやらきついのやらさまざまだ。電車通学でそこから歩きである月湖は、毎日ここを通る。
校門を越える。門は閉じられていたが、非常用の扉はいつも開いているので、そんなに苦労はしない。門を閉じている意味はないが、まあ、今の月湖には大助かりだった。
ちょっと行ったところに、見慣れたワゴンが見えた。毎日洗車をしているみたいに、新車にしか見えない黒のワゴンR。エンジンはかけっぱなしだ。
月湖の存在に気付いたのか、後部座席のドアが薄く開いた。自動でも開くが、この場合は、内側から開けられた。その証拠に、隙間から腕が見えた。
月湖は待たせてはいけないと思い、小走りになる。そして車に乗り込む。ドアを締めたと同時に、車は滑りだした。
「遅い」
後部座席。隣にすでにいた男の開口一番が、それだった。
「学校生活とは、そういうもの、だから」
返す月湖の言葉も、そっけない。
謝ったところで、文句を言われるのは身に染みて判っていた。だから謝らない。今以上に不快な気分を味わうとわかって、どうして反抗できよう。
相手も謝罪を期待しているわけではなかった。そもそも謝罪と感謝を口にされるのを人一倍嫌う男であった。ただ、いつものように皮肉が出てしまっただけである。
男の名前は茅野芳文。黒と灰色の迷彩柄のバンダナを帽子のように頭に巻き、同柄のズボンを着用し、薄手の焦茶のジャンパーを着込んでいた。その手を包むのは指ぬきの黒の皮手袋だ。ご丁寧に、足元も黒のブーツ。それも軍人が付けるようなごついブーツだ。
いわゆる、ミリタリーオタクという奴だ。
「茅野、今日は、いつもと違う・・・・・・?」
いつもは存在しないサングラスがその顔をさらに凶悪に変えていた。
「お前もとっとと着替えろ」
足元に置いてあったバッグを月湖に放ってくる。隣だっただけに、ぶつかると痛い。
自分の学校のバッグを後ろの収納スペースに入れると、受け取ったバッグの中身を確かめる。
窓にはちゃんとスモークが付いている。外から車内は見えないだろう。しかし、ということは、車内の人間には丸見えということだ。
呼び出しを受けるとき、いつもは茅野はいない。こういう非常時の緊急のみ、こうして一緒に行動する。けど、今まで着替えろと言われたことはない。
疑問に思って黙りこくっていると、イライラとした口調で茅野が告げた。
「このまま現場に行くらしいぜ」
「・・・・いやだ」
断るのにも、力がない。あくまでものんびりとしている。
せっかちな茅野は、月湖ののんびりとした口調に苛立ちを隠そうともしない。
「さっさとしねぇか!」
「・・・・・・いやだ」
「月湖、てめぇ」
茅野の手袋に包まれた左手に、不自然な白色の光が灯る。
「お待ちください、二人とも」
一発触発の空気は、運転席にいる第三者の静かな呼び掛けによって霧散した。茅野の手を包む光も消えている。
といっても、やる気になってたのは茅野だけで月湖は相手にしていなかったが。
「車内での争いは困ります。それと樋口さん。目的地は海です。一度、サービスエリアに寄りますから、その時にでも着替えてくだされば、結構です」
組織とハンターの仲介役の檜原さんが、ミラーを通して見てきた。
「わかりました、檜原さん」
答えてから、月湖は自分が今、どこにいるのかを理解した。何時の間にか高速道路に乗っている。気付かなかった。
「けっ」
毒突く茅野。説得されたからではなく、自分の立場に。
月湖たち三人は、同じ組織に属している。組織名は、自然保護団体。通称・≪花風≫。つまり、ゴルフ場設置や廃棄処理場設置などの事業開発に反抗し、植物の苗を育て、禿げ山になってしまった山に緑を取り戻そうとする運動を行なっている団体組織だ。
表向きは。
つまり、裏がある。
表立っての運動は、活発にしてそうで、していない。ただのカモフラージュ。資金集め。税金対策。情報収集。ほかにも色々とごまかしが効いているらしい。
裏では、自然に起こったことで不都合が生じてしまったものたちに対する保護団体、である。つまり、自然界の住人たちのための≪駆け込み寺≫なのだ。
判りにくい説明だが、月湖自身、初めて≪花風≫を知ったとき、こう説明された。説明された文面をそのまま使用させてもらっている。
まあ、簡単にはっきりと言えば、つまり、聖霊同志の戦争、なのである。
いるんだよね、実際に。
ファンタジーの世界じゃ有名な、あの妖精が。
妖精と呼ばれる羽の生えた小動物は、ここでは聖霊と呼ばれている。精霊ならば聞いたことがあると思う。草木などの種々に宿る神霊のことだ。聖霊は、その精霊よりも数段上の霊格を持つ神霊だ。
聖霊は、今では四種類しかいない。花・鳥・風・月の四種。その名も≪花鳥風月≫。
≪花≫ は香を用いて幻覚を誘う、防御系。
≪鳥≫ は肉体を用いて攻める、攻撃系。
≪風≫ は扇を用いて舞う、攻撃系。
≪月≫ は結界を用いて支配する、防御系。
月湖たち≪花風≫のハンターには、その聖霊の加護がある。組織名の通り、≪花≫と≪風≫の聖霊に。
簡単に言うと、憑かれているということだ。なぜ憑かれているかというと、聖霊同志の≪戦闘≫は、聖霊族の中では、タブーにされているからだ。だから、替わりに能力を行使する者が必要となった。それが、人間。
使われる人間にしてみれば、迷惑この上ないことだけど、その代わりといっちゃなんだけど、それぞれの聖霊のもつ能力を少しならば使えるようになる。言わば、ギブアンドテイクの関係になるわけだ。
タブーの理由は色々とあるらしいが、一番の理由は生態系にある。聖霊は、自然から産まれた生きものだ。だから、自然から離れて生活することなんて、出来ない。何をするに於いても、自然の力を借りて、相互関係でもって繋がっている。
聖霊の大きな力を使うということは、自然から力を奪い、死滅させるということになる。
そうなれば、自分たちの生命さえも危なくなる。食物連鎖だ。悪循環だ。
その解決案が、人間の手を借りることだった。人間を間に入れれば、力の補給は人間が行なってくれる。自然から直接生気を奪うこともなくなる。その代わりに人間は、聖霊の力を行使すれば、疲れが貯まりやすくなるし、お腹も早く空いてしまう。人間にとっては本当に迷惑な話だった。けれど、自分たちは手を貸す。
聖霊は、自然をかけて戦っている。自分たちの本能のために闘っている。
それは妖精とはまったく関係のない人間のためでもある。人間は、自然に生かされている、もっとも脆弱な生きものだから。
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08.12.17