幼 馴 染 前編
左前の席が、一人分、開いている。
先ほどの休み時間に図書館に消えてしまってから、すでに20分。
帰ってくる様子はない。今さら帰ってこられても、困るが。
八条清雅は、三ノ宮飛水の席を黒板を見るついでに、一応、視線を寄せた。
飛水は軟派そうに見えて、意外にも硬派である。一人の女性だけをちゃんと見ている。
左隣の席では、大野各務が珍しく外を見ないで、授業を聴いていた。無論、須磨柊も聴いている。そもそも彼は、体育以外は大人しい。
右隣には、本日付けの転校生がいる。
若生凛。
清雅の小学校の頃の幼なじみだ。
親友。仲間。知り合い。ライバル。そのどれも違う関係。
幼なじみという、特別な関係。
彼が昔、何も言わずに引っ越していった時は、悲しいというよりも、何故という、戸惑いの方が大きかった・・・・・・。
当時のことを思い出し、珍しくも清雅は授業を放棄し、幼少の頃に思いを馳せる。
清雅、6才。凛、6才。ともに、小学校に入学する前。
いつの頃、隣が引っ越していったのかも、新しい家族が引っ越してきたのかも、まだ子供だった清雅には判らない。
ただ言えることは、その頃の清雅にとって、お隣さんの幼なじみである凛が、唯一の友達で、話相手で、遊び相手だったことである。
人見知りではないが、旧家である我が家は祖母が君臨しており、話し方から歩き方まで、すべてにおいて清雅を支配していた。故に、同じ年ごろの子供とは、感性がまったく違っており、会話も通じない。
淋しく思ったことはないが、外で遊んでいるみんなを羨ましく思ったことは事実。
そんな時、凛は清雅と出会った。
凛は、元気いっぱいの子供だった。その笑い声は、八条の広い家のなかにまで届いていた。祖母はそれを苛立だしく思っていたようだが。
清雅は着物だった。
普段はずっとそれで通している。外に出るときは洋装だったが、清雅は和装の方が落ち着いた。
その和装のままで、清雅は家の外に出た。といっても、門の外までは出なかったが。
凛はちょうどその時、清雅の門前の道路に、落書きをしていた。
「あれ、知らん顔やぁ。ここん子かぁ?」
京都弁の交じった、そして大阪弁も交じって聞こえる関西弁。
「なあ、これ、何に見える?」
すぐさま自分のフィールドに清雅を迎え入れる少年。その不自然のない様子に、清雅も自然と彼の描いた落書きに視線を寄せる。
幾何学的な絵だった。
なにかのロボットのようなもの。テレビアニメの、影響だろうか。生憎、テレビを見ない清雅には解らなかった。
「すみません。わかりません」
「なんや、そないに下手か? 自信あってんけど」
「何の絵か、聞いても良ろしいですか?」
あまりにも落胆する少年に、良心が痛む。
「ペキン原人や」
「・・・・・・・・・・」
ペキン原人は、人間の進化の途中の生きものだったと思う。
どうして、猿がこんなに装飾を施しているのだろうか。この頭の角は何だろう。手にもっている杖は、着ている鎧みたいなものは、いったい何なんだろう。
「テレビで見てんけどな、こんなんやったで」
チョーク石を握り直し、また、変なものを描き足す。
どうした良いのか、このまま立ち去るわけにもいかず、清雅は立ち尽くす。
「せや。ぼくな、若生凛、言うねん。お前は?」
お前、という言われ方をしたのは、初めてだった。
びっくりして、思わず名前を言ってしまう。
「八条、清雅」
「せいが? らしい名前やなぁ。ええなあ、そんなかっこええ名前で。ぼくのな、女の子みたいやろ、好きちゃうねん。交換できたらええなぁ」
かっこいい名前と言われたのも初めて。名前の由来を聞かれなかったのも初めて。変な名前だと、笑われなかったのも初めてだった。
何よりも、凛、という言葉に合う名前とその人間に会ったのも初めて。
「凛とした、という表現があります。厳しい寒さのこと。キリリと、引き締まっていること。とても、いい名前だと思う」
「そうなん? へぇ、頭ええねんな。な、ここの子やろ? やっぱ中も広いし大きい? セイガのその格好も、ようあってんな。きれい」
「きれい?」
物心着く前から言われ続けた表現。
けれど不思議なことに、嫌悪感はなかった。
「引っ越してから、友達第1号や。はい、これあげる」
凛は、持っていたチョーク石を、清雅に手渡す。
「前住んでたところから、持ってきてん。こんなん、いっぱい落ちとったから。セイガも描こ。ぼく、このペキン原人完成さすから」
まだ完成していなかったのか。
手のなかのごつごつとした、白い穴だらけの石。その穴の、一つが塞がったような感覚。
その日、清雅は、初めて友達と遊ぶことを経験した。
あの後、着物を汚してしまい、祖母に説教をもらって離れに監禁された。それでも凛にもらったチョーク石は手放さず、初めて淋しくない、恐くない夜を明かした。
凛に出会ってからは、何から何までも、始めてずくしだった。
そしてそれは、今もかわらない。
凛は清雅自身を神さまと言っているが、それは全然違う。
凛のほうこそが、神みたいだ。
屈託ない笑顔。素直な性格。人を疑うことを知らない。正直者の人間。
こんな世では、とても生きにくかっただろうに、凛は何でもないように笑う。
凛の両親は、正直言って善い人間ではなかった。犯罪を簡単に犯す人間だった。凛はそんな人たちに育てられた。凛自身、知らず知らずのうちに手伝わされていた。
清雅の家も、その標的の一つだった。
どうやら事前に若生夫婦の悪巧みを知り、事なきことに出来たようだが。
結果、凛は引っ越した。
清雅には何も言わずに。
夜逃げにもにた引っ越しだから、凛も解らなかったかもしれない。
それでも、裏切られたという思いは、あった。
今日、こんなところで再会するなんて、夢にも思わなかった。
(だから)
とても気になる。
凛の特殊能力が。
昔はそんなもの、なかった。それははっきりと言える。どんな能力にしろ、あの強かな若生夫婦が、凛の能力を知って、使わない訳がないのだから。
そして、自分にも経験のある、あの痛み。
能力者は、他の人とは違う。少人数の種族といってもいい。そして、得てしてそういう種族は、狩られる立場にある。この場合は、いじめ。
子供は感受性が強い。
どんなに隠しても、異端児をたやすく見付けてしまう。
清雅も、能力とは関係なしに異端視されていた。家のおかげで、能力のことは知られなかったが、そんなことは慰めにならない。
弥瑛西校という逃げ場所がなければ、受け入れてくれる場所がなければ、立ち向かう協力をしてくれる場所がなければ、仲間がいなかったら・・・・・・。
そう、ここは楽園だ。
毒にも似た媚薬が充満している、快楽の場。
そんな場所に、凛を巻き込みたくなかった。
清雅は、右隣の幼なじみを、何気ないふうを装って、眺める。
視線に気付いたのか、凛がこちらを向いて、笑いかけてきた。凛にとっては、清雅の一挙一動が、とても嬉しいに違いない。
自分も、幼なじみに会えたのは嬉しい。再会できると思っていなかっただけに、その嬉しさは、たぶん、凛以上に大きいはず。
「この学校って、授業早いな。前いたとこから、むっちゃ進んでる」
歴史の授業、凛は、教科書を十数ページ前を捲った。
そこまでしか、教わっていないと言いたいのだろう。
「後で、ノートを貸してやる」
「ついでに、他のも貸して。あと、教えてくれたら嬉しい」
要求が増えている。
それでも、厭らしく聞こえない。それが、凛の良いところだ。
「私で良ければ」
「おおきに」
花が咲いたような笑顔。
清雅が月とすれば、凛は太陽のように笑う。
太陽がなければ輝けない月としては、太陽な輝きは半端でなく眩しい。
清雅はその眩しさにあてられ、微笑む。
運よくその笑顔を見てしまった歴史担当教師は、その場で貧血を起こし、倒れた。倒れた折りにどこかにぶつけたのか、その白いシャツは赤い染みが出来ていた。
突如、出来上がった自習時間。
哀れ、清雅の毒牙にかかった32才のオールドミス。のちに彼女は、保健室でこう言ったという。
「彼は、天性だわ・・・・・・」
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