「お疲れ様です。茅野さん。樋口さん」
小型船から上がり、久方ぶりの揺れない固い陸を感じる。それだけで、月湖の船酔いも軽くなった気がした。
「≪月鳥≫のメンバーもいるぜ」
小型船の中には、聖霊の加護を失い、廃人のような茫然自失状態の二人の男がいる。茅野が≪鳥≫のハンターの武器を握り潰したのだ。彼は抵抗しなかった。加護失えば、聖霊に関わった間の記憶は曖昧になり、『普通 』の現実に戻っても違和感ないよう、記憶操作される。聖霊の仮の姿である手袋も、潰されても変身を他者から強制的に解かれただけで、実害はない。ただ、本来の依代へと戻り、永い眠りにつく。
「了承しました。お二方とも、民宿を用意しております。如何しますか?」
「決まってっだろ」
茅野は即答した。月湖も、その後ろで首肯いた。
茅野の硬い髪は潮で強々としており、月湖の全身は海水でべたべたとしていた。戦闘中は無傷だったのに、一息ついてから海に落ちたのだ。もちろん茅野は助けてくれなかった。サポート役の人が意識を取り戻してくれて、溺死するのを免れたのだ。
「あの、つくしの精霊は、途中で、迎えが、来ましたから」
月湖の話し方は、以前と同じでゆったりとしたぶつ切りになっている。
戦闘中の豹変ぶりが、まるで嘘のようだった。
「了承しました」
陸で待っていた檜原さんとその部下にその場を任せ、部下の一人の案内で旅館に入った。
すでに報せがあったらしく、玄関に入ってすぐに洗面道具を与えられ、温泉にいくよう指示された。公衆浴場ではなく、露天温泉だ。
浮き浮きとした気分で露天風呂に入り、今までいた海を月湖は眺める。思ってた以上に身体が冷えていたみたいで、お湯に浸かるとき、とても熱くて火傷しそうだった。
露天には客が、すでに二人いた。常連っぽいおばちゃんたちだった。
どうやら月湖のしでかした竜巻をこの場から見ていたらしく、興奮した状態で月湖にまで話し掛けてきた。自分では見ていないので、面白可笑しく聞かせてもらった。
その笑い声を聞いて、そんなに離れていないところから茅野の怒った声が飛んできた。どうやら、この露天温泉は男風呂と繋がっているらしい。そこでも竜巻は噂になっており、茅野は辟易しているらしかった。
おばちゃんは「彼氏かい?」「もう少し良いのを選んだほうがいいよ」などと、優しく進言してくれた。とりあえず、面倒なので首肯いておいた。
風呂から出ると、待っていた檜原さんの部下が部屋に案内してくれた。旅館の浴衣の帯が巧く巻けなかったので、ちょっと引きずるようにして歩く。部屋に着くと、すでに茅野が昼食を取っていた。
一食(一泊ではない)壱万円はしそうな、豪華な料理であった。聖霊の力を使うとすぐにお腹が空く。しかもいまは2時すぎで、昼食なんて一口も口にしていなかった。先に食べていた茅野への文句など素っ飛び、目の前の料理にかぶりついた。
一息吐いたのは、それから二十分後だった。食べに食べた。残っているのはご飯と味噌汁だけだ。それとデザート。たいてい旅館の料理は多すぎるものだけど、茅野と月湖には関係ない。用意されていたお櫃も中身も程なく空っぽになった。
「飯、食ってる時だけは素早いな」
呆れたような口調で茅野が嫌味を言った。満足したので、月湖をイジめる余裕ができたんだろう。迷惑な話だ。
茅野はいつものミリタリー装束ではなく、用意されていた浴衣を身につけていた。月湖みたいによれよれではなく、ビシッと決まっていた。
しかし、バンダナだけはそのままだ。深緑の迷彩柄。予備を持ってきてたようだ。
「ったく、てめぇのその二重人格はどうにかならねぇのかよ」
「うん」
即答だった。だってそれ以外、返事のしようがない。
聖霊の力を大きく何度も使うとき、月湖の理性は途切れる。船に酔ったように、月湖は聖霊の力に酔う体質だった。
別の人格が自分を操っているとしか思えないぐらい、無邪気な子供になり、天然で色気を放出していく。更に気が大きくなってどでかい技をいくつも披露してしまう。歯止めが聞かなくなるのだ。
いつもが大人しい分、反動が来ているのかもしれない。
その代わり、急激に高まった酔いはすぐに冷め、疲労感と脱力感、空腹に悩まされることになる。海に落ちたのはこれが原因だ。
「今回も、大事にならなくて、良かった」
「ま、今回は大人しすぎたな」
「それに関しては、言いたいことはあります」
突然、室内に第三者の声が加わった。
「―――― 檜原さん。何時の間に、そちらに居られましたか」
「最初から居りました」
お食事にお忙しかったのでしょう。
そんな刺をちらりとのせて、檜原さんは月湖たちを見た。
「例の竜巻、かなりの広範囲で噂が立っております。衛星にも記録が残っています。見ますか?」
「はい」
檜原の最高の嫌味だったに違いない。それは無邪気な月湖の返事に潰された。
だからといって、月湖は何も考えていなかったわけではない。もちろん、悪かったなと思っている。でもそれは、けっこう他人事のような感じでいた。
人格がぶっとんでいる間、記憶もあるし手応えも覚えているが、それはスルリと月湖の手を擦り抜けるような感覚に終わっている。
さらには、今回の件、いつもやっている事に比べたら、断然に目立たない。大人しすぎるという表現が正しいぐらいなのだ。
「月湖さんの性格豹変は、こちらも知っていますし、仕方ない、の一言しかないわけですが。ですが、もう少し、注意をしてもらえませんでしょうか? たしかに今回はいつもより被害は少ないでしょう。けれど、人の目に晒しすぎています。今のところ、浮いていた人間の存在は出ていないようですけどね」
「なら、いいじゃねぇか」
「≪月鳥≫ではどうだったか知りませんが、ぼくたちが秘密裏に動く人間だということ、理解されてますよね?」
きつく、檜原は言い放った。
茅野の特殊な環境というのは、こういうところにある。すでに≪花風≫に入って一年。彼の存在は今だに『仲間 』 に入れない。≪花風≫に寝泊りし、その生活のほとんどに監視がついている。
≪花風≫トップの実力を持つ月湖のパートナーに茅野が選ばれたのも、そういう理由からだった。月湖なら、簡単に殺られはしないだろう、という意味も込めて。
ただそれは、茅野にとっては実に喜ばしい結果になっている。茅野が組織を裏切ったのは月湖が原因だからだ。
しかしそれは、茅野と月湖以外、誰も知らないことだ。
「檜原さん。結局のところ、何が、言いたいんですか」
「・・・・・・もう少し、考えて行動してください。それだけです」
月湖に言っても糠に釘付け。それを分かっているのか、檜原さんの声は弱々しい。
しかしすぐに自分の務めを思い出し、元気になる。
「あと一時間は、ゆっくりできます。お帰りはどうしますか?」
「どうする」
茅野が聞いてくる。月湖は自分のお腹に手をあて、しばし考える。
「お腹の状態をみなきゃ、分からない・・・・・・。まだ入りそう・・・・?」
「だってよ。俺もそれに合わせる」
闘いが終わったあとの茅野は、魂が抜けたように大人しくなる。普通の人よりは好戦的だが、それでも闘う前よりは落ち着いている。
血を見るのが好きで、闘うのが好きで、滾る血を押さえきれなくて興奮している茅野を目の前で見ている月湖にとって、野性的な茅野じゃない茅野は、どうもおかしかった。
「なにアホ面を晒してやがる」
皮肉な言いようは、同じだった。
「うん、ごめん」
茅野の眉が跳ね上がる。
謝るのも、謝られるのも、どちらも同じだけ大嫌いな茅野にとって、月湖の謝罪は、たとえ反射的なものでも赦せるものではなかった。
茅野の治まっていたイライラが、沸き上がってくる。
そんなことも知らず、月湖は食後のデザートをぱくついている。見るからに幸せそうなその顔は、見ている茅野にとっては、毒気が抜ける思いだ。怒る気も失せてしまう。
大きく、茅野はため息を吐く。月湖との初めての邂逅を思い出し、さらに眉を顰める。
結局のところ、月湖の関心事は目の前にあるものだけだ。茅野が何を思い、怒鳴ったり暴力を奮ったりするのを我慢しているのかも、正確には判らない。
それは、月湖のせいであっても、月湖の責任ではなかった。
海の章 終章
一年も半分が過ぎ、終わりに近付いていくと、だんだんと暗くなるのが早くなってきた。
つい先日まで暑かったのに、今じゃ首を縮めて足早に家路に着く。以前なら子供の声が煩かった時間帯も、今ではすっかり静まり返っている。反対に家の中は明るく暖かい。
本格的な冬が訪れようとしている。
気の早い商店街なら、そろそろ赤と緑のクリスマスカラーを出そうかという時期だ。
それなのに、彼女は以前とかわらず、岩木家を訊ねてくる。
もとい、岩木家の、庭というには失礼すぎる雑草だらけの空き地に。
「もう暗いぞ」
そんな注意は無意味だ。
こんなことを言っても、聞いてくれたためしがない。去年も、一昨年も、彼女は自分が納得するまで縁側を離れない。馴々しい奴だと何度苛立ったことか。
そのうち岩木も彼女の存在に慣れてしまい、来ない日は妙に落ち着かなくなったりする。本当に腹立だしい少女である。
「月湖の家は、今日はシチューみたいだな」
向かいの家からホワイトシチューの匂いが漂ってくる。この匂いにつられて帰ってくれないものか。岩木は半分諦めモードでため息をこぼす。
そして彼女がいるせいで雪見障子を閉められない岩木は、彼女に付き合ってぼんやりと暗くなる空を見上げている。
―――― 彼女が見ているのは、梅だと思っていた。
けれど毎日のようにくる彼女の目的は、やっぱり梅じゃない。春夏秋冬、一年中なのだ。花の付かない季節の梅の木をみて、春爛漫の庭を無視してごつごつした木を見上げて、楽しいわけがない。岩木自身がそうなんだから。
なら、彼女が見ているものは何だろう。
地面に足を突け、縁側に腰掛け、そのまま寝転がっているのは、上空にあるものを見るためだろう。それは、空なのか。雲なのか。時折来る鳥なのか。飛行機なのか。その奥にある宇宙とでも言うのだろうか。
「岩木さん」
突然、名前を呼ばれた。
いつもながら、彼女のタイミングには付いていけない。
この時も、返事を返すのが一拍遅れてしまった。
「なんだ」
「月よりも、星のほうが数が多いのに、どうして、月信仰のほうが、多いのでしょう」
「・・・・・・変なことを考える奴だな。一つしかないから有り難みも強いんだろうさ」
自分でも、なんだその説明は、と思った。
「はあ、なるほど・・・・」
けれど彼女は納得したらしい。しきりに(寝転がったまま)頷いている。
「さっさと帰れ」
例えお向かいさんでも、夜遅くまで年ごろの女子を家に置いておくわけにはいかない。
これは月湖の問題よりも、岩木の問題だ。
岩木の評判を落とすようなことは、絶対にしたくない。それも彼女の母親の前で。
月湖自身も恋人がいるのなら、そこら辺をもう少し考えてほしいものである。そして恋人にはもう少し、月湖の教育をして欲しい。
「明日も学校があるだろう。宿題はどうした」
「もう、高校生だから、そういうのは、卒業しました・・・・」
「予習復習のことを言ってるんだ。そんなだからお前は休みのたびに補習やら課題やらを出されるんだろう。聞いたぞ、去年は追試まで受けたんだって?」
聞きたくない、とばかりに月湖は起き上がり、両耳を両手で塞ぐ。
そういうことをされると、余計に言い募りたくなるのが人間である。
「朝もこっちに寄らずに早朝勉強とかしてみろ。俺が中学高校の時はクラスの半分が早く登校してやってたんだぞ」
これでも岩木は、県内でもトップの進学校出身である。
縁側から起き上がり、地面に降り立つ月湖。しっかりと両手は耳を塞いでいる。
「それでは、失礼します・・・・」
「逃げるな、月湖!」
あんなに言っても出ていかなかった月湖が、さっさと出ていく。
言い足りない文句に舌打ちした後にその事実に気付いた。
「―――― 次からこの手で行くか」
岩木には大学が。
月湖には高校が。
それぞれの生活が、待っている。
二人の生活が重なることは、きっとない。
終
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