神様、もう少しだけ −7−


 神田さんと喧嘩した。
 と、言えるだけの冷静さを、わたしは夜には取り戻していた。
 大声を上げた記憶なんて最近ない。その上我侭めいた喧嘩なんて、自分の人生に一度としてあっただろうか。
 それは恥ずかしいを通り越して、消えてしまいたいほどの衝撃でわたしを襲った。
 そんな時だった。扇くんから電話があったのは。
 新聞屋さんから貰った動物園のチケット。三枚貰ったので、弟と一緒に行くから一緒にどうですか、という誘い。
 正直その誘いは嬉しかったけど、気分が乗らなかった。たとえ行ったとしても、観多里さんのことばかり考えて失礼になるとも思った。
 どうして自分を誘ってくれるんだろう。
 もしかして自分のこと? なんて考えは思い浮かばなかった。
 隣の席というだけで律儀な委員長だな、という感想があっただけ。

『動物園なんてもう縁がないから、僕としては最後のチャンスなんだけど。狛倉さんの都合さえ良ければ、気分転換にどうかな?』

 気分転換。それはたしかに、必要かもしれない。
 それに観多里さんと喧嘩した余韻は、冷静になったといっても、まだ燻っている。
 対抗するつもりはなかったけど、観多里さんの顔が浮かんだのは事実。
 あっちは天使の仕事も忙しいだろうから。だからこっちはこっちで遊ぶ。

 翌日、わたしは待ち合わせの駅に立っていた。
「狛倉さん。こいつが弟の蓮。小2なんだ。ほら、あいさつ」
「おはようございます。扇 蓮です」
 小学校の朝礼で見るような、腰をきっちりと曲げた挨拶に、わたしは笑みが込み上げるのを必死に我慢する。
 委員長の弟も、学校では生真面目な委員長なのかもしれない。
「おはよう。狛倉李って言います。今日は兄弟水入らずにお邪魔しちゃってごめんね」
「スモモ?」
「うん。小さい桃みたいな果物だよ。美味しそうな名前でしょ」
 昔はよく苛められたが、それでも嫌いになれなかった名前。
 だって果物の李は美味しい。甘酸っぱくて、いくらでも入る。それに見た目も丸くて可愛い。
 あの果物と同じものに見られるなら、嬉しいぐらいだった。
「珍しいけど、可愛いよね」
 扇くんの口から出た賛辞に、思わず内心の声が出てたのかとビクリとする。
 でもニコニコと蓮くんと笑っている扇くんを見て、わたしも微笑んだ。
 心を擽られるような嬉しさがあった。
 じんわりと、自分の中の昨日までの意固地な部分が溶けていく。
「・・・・・・ありがとう」
 来て良かった。そう思えるだけで、動物園に行くのが楽しくなってきた。


 遠足は家に帰るまでが遠足です。
 そんな言葉を思い出すほど、行きの電車から楽しいピクニックになった。
 わたしと扇くんだけなら、「いい天気だねー」「楽しみだねー」で一日中のんびりと過ごして終わりそうだけど、蓮くんが話し上手で、わたしと扇くんはずっと笑ってた。
 それは動物園に着いて、園内を回っている時も続いていて、朝から笑いすぎてお腹が痛くなったぐらい。
「もー、蓮くん、ホントにそれって本当なのっ?」
「本当にあったよ! 恋占いの機械の前で! ギャップがすごくってさっ」
「動物占いの名前は聞いたことあったけど、そういうのもあるんだなぁ」
「兄ちゃん、信じてないだろっ」
「いや、だって出来すぎだろう、それは」
 教室じゃ聞かない軽口を叩く兄弟。知らなかった一面は吃驚するよりも馴染んだ。
 人は多かったけど、その分ゆっくりと動物たちを見ることが出来て良かったと思う。

(今までわたし、余裕なかったんだ・・・・)

 わたしの前に黒衣の天使が下りてきてから、息つく間もない一日ばかりだった。
 それにわたしは、観多里さんにずっと黙っていることがある。それも重荷になっていた。
 目まぐるしく変化する環境と感情に、知らず知らずのうちに疲れていたんだ。

(観多里さんに謝ろう)

 そして本当のことを言おう。きっと怒られる。そして呆れられるか軽蔑されるか。
 それを想像するのは痛いぐらいに辛いけど、もう内緒にしておけない。
 天使のくせに携帯電話を流暢に扱う観多里さんに、真っ先に電話しようと決めた。


 帰りの電車の中で、蓮くんは寝てしまった。
 膝のうえに乗せたリュックを持ってあげると、ことん、と頭を預けてくる。
「あ、ごめんね、狛倉さん」
 気付いた扇くんが手を伸ばすのを押し止める。
「いいの。起こしちゃうから。寝かせてあげよ」
「ありがとう。じゃあ、最初に僕の家に寄ってもいいかな。弟を先に帰さないと。それから家まで送るから」
「そんな、いいよ。扇君も疲れてるじゃない。まだ空も明るいし、大丈夫」
 蓮くんを気遣って小声で会話しあう。
「今の時期の夕方を舐めちゃ駄目だよ、狛倉さん。それに、男の仕事を取らないでほしいな」
 苦笑する扇くんに、なんでか申し訳ない気分になった。
 まるで、自分が女の子になったような感覚。
 もちろん戸籍上も女性だけど、なんというか、異性としての女性を自分の中に見付けた感じ。何となく気恥ずかしい。
「じゃあ・・・・、お願いします」
「うん」
 それから、本当に他愛無い事を話した。
 学校のことや記憶に新しい動物のことを、ぽつりぽつりと。
 そうして三人の最寄りの駅に着いたとき、扇くんの言うとおり、油断できない暗さの空になっていた。
 それは扇くんの家に蓮くんを帰し、わたしを送るために反対方向へ向かう頃には、夜と言ってもいいぐらいに闇が落ちていた。
「駅に着いたとたん、夜が始まったみたいね」
「夜中に雨が降るってニュースでやってたから、そのせいだよ」
「そういえば、雲が広がってるね。雷、鳴るのかな」
「嫌い?」
「数を数えられるから大丈夫」
「数を?」
 変な答え方に扇くんが首を傾げた。
「中学の時に授業で習ったでしょ? 雷が光ってから落ちるまでの時間差が大きいと自分がいる場所から遠いって」
「ああ!」
「わたしね、いっつも空が光ったら数を数えるの。それで遠いな、近いなって考えるの」
 遠かったら安心して、日常に戻る。
 近かったら何度も雷が光るのを待って、数を数える。遠くなるまで。
「嫌いっていうより、苦手かな。気になって無視できなくて。だから苦手」
「気になって、無視できなくて・・・・か。神田さんも、そうならいいのにね」
「・・・・・神田さん?」
 唐突に出てきた名前に、昨日までずっと考えていた名前に、どう反応していいのか判らない。
 不安になって扇くんを見つめると、扇くんは視線を前方から左に移した後、わたしを見た。
「家に着いたよ、狛倉さん」
「あ・・・・」
 見慣れた門柱があった。石の表札にはローマ字で『KOMAKURA』とあり、その下に漢字で狛倉とある。
「狛倉さん、今日は無理を言ってごめんね。遅くまで付き合わせてごめん。親御さんには俺からも謝ろうか?」
 先程の変な空気が霧散し、扇くんは委員長の顔で尋ねてくる。安心して、わたしも微笑んだ。
「そんな、大丈夫だよ、扇くん。ほら、玄関しか電気がついていないでしょ。きっと今日も残業だと思うの。だから気にしないで。それよりも今日は誘ってくれてありがとう。楽しかった」
「本当に? そう思ってくれるなら、良かったよ。じゃあ、もう遅いから俺はこれで。戸締まり、気をつけてね」
「送ってくれてありがとう、扇くん。気をつけてね」
「うん。また明日、学校で」
「また明日」

 そうして少年は来た道を戻り、少女は少年が角を曲がるまで見送り、それから鍵をあけて家のなかに入った。それから少しして、家の中から明かりがもれる。
 天使が空の上で見守っていたことを、二人が知ることはない。



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08.06.14


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